経済学・哲学掲示板 過去ログ-2-

6月15日(日)22時39分28秒〜7月 1日(火)20時30分57秒


し、かし 投稿者:高望み  投稿日: 7 1()203057

馬渡尚憲『経済学史』(1997年)で、リカードのあとのマルサス、ベイリー、シーニア、セー、シスモンディの論争のあたりを読んでいたら、宇野弘蔵『経済原論』(1950-52年)・山口重克『経済原論講義』(1985年)の時代から、独自の歩みを展開してきたつもりの1990年代の自己展開のかなりの部分が、じつは1820〜30年代における「俗流経済学」としてマルクスが一蹴してきた学説展開の反復だったことがわかった。

 つまりはリカード→「俗流経済学」の理論的な発展を、宇野・山口を出発点として単純に反復していたということであろうか。

 なんだか、こうなってくると、やっぱり「マルクス」経済学、て名乗り続けるのがどうなのか…という気にもなってくるところではある。。。

編集済


RE:とりいそぎ、アップ 投稿者:高望み  投稿日: 627()184519

 宇野学派といっても多様ではありますが、鈴木鴻一郎編『経済学原理論』の価値形態論は、『資本論』返りをしているのでまったく特殊です。塚本さんのは読んでないのですが、人脈的には宇野派というよりも向坂派のイメージがあり、もしかするとやはり『資本論』に近いのではないでしょうか。

>>宇野といえども、「簡単な価値形態」・「拡大されたる価値形態」・「一般的価値形態」そして「貨幣形態=価格」という理論展開の骨子は、当然マルクスの手のひらのなか、のことでは、と。>>

 現時点では老愚童さんが、宇野自身を読まれているのか否かが判断できませんので、釈迦に説法のことになるかもしれませんが、

1.宇野は価値形態論に商品占有者を登場させて、形式の論理ではなく、経済行動の論理に組み換えた。

2.「拡大されたる価値形態」と「一般的価値形態」を『資本論』第二版のように、一対多から多対一に図式的に転倒させるという論法は否定し、商品占有者の欲望からしだいに交換可能性の高い商品に一般的等価物が特定されてゆくという論理にした。

という二点は確認しておきたいと思います。

>>「貨幣の謎・生成」を説明することに仮にマルクス貨幣論が成功しているとして、では、他の諸科学(Wissenschaftくらいの意味で)の問題解明の手法と比較してみると、例えとしてどんなものがあげられるでしょうか?>>

 すみません、この部分、落丁があるようです、ご趣旨が読みとれません。

編集済


RE:リ・すとら・・ 投稿者:高望み  投稿日: 627()183239

>>とするならば、これは半ば形而上学が対象とする領域の考察になるのではないか、と。
 であれば、マルクスの意図は不明ですが、「批判的解体作業」ではなく、形而上学の「批判的再構築」になっているのでは、と思えてしまうのです。>>

 おっしゃることはわかります。「批判的」まではそのとおりだが、「解体作業」ではなくやっぱり「再構築」ではないかということですね。

 超感覚的な対象をそれ自体で存在しているとみなし、ひいては神・霊的なものとして扱うのが狭義の「形而上学」だという認識を私もしているし、おそらくはマルクスもしているのではないかな、という立場で考えています。

 その場合、超感覚的な対象性の存立構造を解き明かして脱神秘化することは、超感覚的な対象そのものの解体作業ではないけれども、狭義の「形而上学」の解体作業になるのではないか、という言葉の運びになりうるものと思っています。

 「あたかも空気をその元素に科学的に分解するということが、物理学的物体形態としての空気形態を存続させるのを妨げないのと同じように……」(第一章第四節)

とマルクスがいっているのは、そうしたことの比喩だと思います。

 >>*この註についてのfur sich,fur es ,fur unsを駆使した広松の読みこみ、今読み返すと面白いものがありますね。>>

 まさしく御指摘の通り、fur sich,fur es ,fur unsの論法を使うと、如上の話しは見通しがよくなると思います。fur unsには空気が元素に分解され、超感覚的な対象が社会的関係性に分解されても、fur es には空気は空気であり、超感覚的な対象は超感覚的な対象であることにかわりがないということですね。

編集済


とりいそぎ、アップ 投稿者:老愚童@なんとか  投稿日: 627()010420

>「宇野学派ではマルクスの論理展開にはおかしなところが沢山あるということは前提とされていて、独自の再構築の努力をしてきました。」

 「形態論」と「実体論」とを分離したことは、ひとつの知見ではあると思いますが、単に戦線を分断しただけなのかな、とも思います。宇野といえども、「簡単な価値形態」・「拡大されたる価値形態」・「一般的価値形態」そして「貨幣形態=価格」という理論展開の骨子は、当然マルクスの手のひらのなか、のことでは、と。
 また、宇野シューレ自体いくつかのヴァリアント(鈴木鴻一郎、塚本健くらいしか思い出せませんが)にわかれているようですから、統一的見解のようなものがあるのでしょうか?
 私は、宇野説であれそれ以外のオーソドクシーであれ、マルクス貨幣論に凭れた理論に釈然としないものを感じるのです。
 「貨幣の謎・生成」を説明することに仮にマルクス貨幣論が成功しているとして、では、他の諸科学(Wissenschaftくらいの意味で)の問題解明の手法と比較してみると、例えとしてどんなものがあげられるでしょうか?



リ・すとら・・ 投稿者:老愚童@なんとか  投稿日: 627()005529

>「・・それは方法論の問題とはまた別の次元の問題ということになります。」

 しかし、いくつかの相矛盾する書評を引用する前に、「・・資本論で用いている方法があまりに理解されていない」がゆえにと、そうした書評を掲載する理由を述べているわけでしょう。やはり「方法論の問題」にかかわる大切な点であると考えたほうが無理がないように思います。が、とまれ、このはなし、留保。

>「柄谷やシニフィアン云々の話しには、もしご関心がないようでしたら、まったく不必要な比喩ですので忘れてください。」

 あまり関心ありません。了解しました。

>「ペテロという人間はパウロという人間に対して、自分に等しいものとして(als)相関係することによって、はじめて、自分自身に人間として(als)相関係する。しかしながら、このようにしてペテロにとっては、パウロなるものの全身が、そのパウロ的肉体性のままで、人間という種の現象形態として(als)考えられる(gelten)のである。」・・( )内は老

 ペテロとパウロの例(註18)をあげて、「人間なるものの存立機制をあきらかにしていく問題意識がはらまれていることになります」、とされる高望みさんのご教示、基本的にそのように思います。 そうしますと、「価値」と「人間という種(Genus)」、「(相対的)価値形態」と「人間という種の現象形態」が対応している(或る理論的位相では同等の権利が付与される)、とするならば、これは半ば形而上学が対象とする領域の考察になるのではないか、と。
 であれば、マルクスの意図は不明ですが、「批判的解体作業」ではなく、形而上学の「批判的再構築」になっているのでは、と思えてしまうのです。

 *この註についてのfur sich,fur es ,fur unsを駆使した広松の読みこみ、今読み返すと面白いものがありますね。


超感覚的な価値対象性 投稿者:高望み  投稿日: 621()190716

>>「超感覚的な価値なるものがじつは『シニフィアンの戯れ』(=物質的世界)から派生・・」
 よく飲み込めないのですが。時間的余裕ができたとき、できれば学校教師風な説明お願いします。>>

 柄谷やシニフィアン云々の話しには、もしご関心がないようでしたら、まったく不必要な比喩ですので忘れてください。以下、マルクスの叙述に即していきます。
 マルクスは、簡単な価値形態の「相対的価値形態の内実」という項目の末尾あたりに付した註18において、次のような有名な言葉を述べています。

 「ペテロという人間はパウロという人間に対して、自分に等しいものとして相関係することによって、はじめて、自分自身に人間として相関係する。しかしながら、このようにしてペテロにとっては、パウロなるものの全身が、そのパウロ的肉体性のままで、人間という種の現象形態として考えられるのである。」

 ここで、マルクスは価値形態についての説明を比喩的に言い換えているわけですが、価値と人間という種(初期マルクスの「類的本質」ですね)が対応し、価値形態と人間という種の現象形態とが対応していると考えられます。

 価値や人間という種は、具体的な使用価値やパウロ・ペテロといった生身の肉体とは異なる次元にあるものとして、超感覚的な価値なるものであり、人間なるものです。そのような超感覚的な存在性格をもった何かは、いったいどのようにして成立するのか。それを相対的価値形態にある使用価値と等価形態にある使用価値との関係性から説明しようとしているわけです。

 いいかえると、ペテロの生身の肉体とパウロの生身の肉体が相向き合う関係性から、人間なるものの存立機制をあきらかにしていく問題意識がはらまれていることになります。

 それをマルクスが「形而上学」の批判的解体作業として自覚的に位置づけていたのかどうかは、必ずしも判然とはしませんが、そこから解釈をひろげてゆく余地は十二分にあるということです。

編集済


みつかりました 投稿者:高望み  投稿日: 621()181409

>「・・該当個所が見つからない・・」
 独逸語版、25から27頁の内容はおおよそ次のようなことでは・・。

 ああ、種々の書評への論評のくだりの最初のほうにありました。このあたりはとばして探していました。
 ようするに、悪口としての形而上学という非難に対して、マルクスは種々の他者の言葉で反撃を試みているわけですね。それで、老愚童さんとしては、

 >>特にいま不断に存在する貨幣の存立根拠を説明し得ないとしたら、マルクスの貨幣論はたんなる形而上学ではないのかと。その場合、第二版後記において「形而上学だ」という批判に対して反駁した弾丸は本人にもどってくるのではないか、と。>>

いうのですが、これはどうもやはり、不十分な理論にすぎなかったから、結局、形而上学ではないか、ということになってしまうのではないでしょうか。

 しかし、パリの書評子が、マルクスは経済学を形而上学的に取り扱っている、といっているのに対して、マルクスがジーベル氏の口をかりて反論しているのは、イギリス的な「演繹的方法」で理論経済学者にふつうの方法論的な取扱いだ、というものであり、ブロック氏の口をかりていうのは、マルクスは分析的な方法を使っているということです。また、ペテルスブルクの書評子を引いて、マルクスは叙述を一見すると観念論的だが実際にはいちばんのリアリストだ、と反撃しています。

 さらに、このペテルスブルクの書評子は弁証法を観念論的な叙述法だとみなしているようであるが、彼が適切に紹介してくれている方法論こそ弁証法的方法にほかならないではないか、といっているわけです。
 それに続けて、ヘーゲルの弁証法は頭でたっているが、それを転倒させてその合理的核心をつかみとらねばならない、という話しに展開していきます。

 つまり、パリの書評子もマルクスも、それぞれの具体的な意味内容はわからないけれども、形而上学という言葉は非現実的な問題を取り扱う虚学という意味で共通しており、それに対して、マルクスは、演繹的でイギリス経済学に共通の方法だ、分析的な方法だ、リアリストだ、という書評を並べて反撃しているわけです。
 そして、最後に、弁証法もまた、ヘーゲルの神秘的な装いをはぎとれば、それらの方法論を総合したものとなる、とマルクスはいわんとしているのだと思われます。

 ですから、この場合あくまでも「形而上学」というのは非現実的な虚学という非難としてとらえられているのであって、商品や貨幣や資本についてのリアルで分析的で演繹的で弁証法的な取り扱い方そのものには関係ないという文脈になります。商品、貨幣、資本にかんする理論としての不十分さはそれとして問題ですが、それは方法論の問題とはまた別の次元の問題ということになります。

編集済


>高望みさん 投稿者:老愚童@ふうぅっ  投稿日: 621()024438

>「超感覚的な価値なるものがじつは『シニフィアンの戯れ』(=物質的世界)から派生・・」
 よく飲み込めないのですが。時間的余裕ができたとき、できれば学校教師風な説明お願いします。

>「たんに不十分な理論という意味で形而上学というなら、・・言葉の濫用・・」
 この問題、個人的にはとても重要なものと考えております、ゆえに時間的余裕が出たときに御返事差し上げたく存じます。
 ただ、理論的構造・展開の不首尾をもって形而上学、と言ってるわけではないこと、了解ください。むしろ、前に書き込んだ意味での形而上学の復権はアリかな、とも考えております。

>「・・該当個所が見つからない・・」
 独逸語版、25から27頁の内容はおおよそ次のようなことでは・・。

『資本論』のロシア語版がほとんど売り切れたこと、『資本論』がスミス=リカード学説の必然的発展であることをN・ジーベルが論証したこと。
 『資本論』の方法が理解されてない証左として相矛盾した理解がある。一方では「経済学を形而上学的に取り扱っている」とされ、他方では「事実を分析するだけで・・」などと。
 この論難に対してマルクスは先のジーベル氏の口を借りて
「本来の理論が取り扱われるかぎり、マルクスの方法は・・演繹的方法である。・・」
と反論の構えを見せ、さらにはカウフマンの論文引用のあとに自らの方法が「弁証法的方法」にほかならないのだ、と。
 
 以上、形而上学という世評に対するマルクスの反駁ではないのでしょうか?それとも私の誤読(可能性おおいにあると思います)でしょうか?


>>老愚童さん 投稿者:高望み  投稿日: 620()152606

>>しかし、商品を感覚的に分析しても「価値」など感知できないわけで、ここは「形而上学的」と批判されても良いのではないかと。
>>価値実体論<超感覚的な領域を思索対象としているという意味で形而上学

 マルクスにどこまで「形而上学」批判の問題意識があったかは判然としませんが、柄谷行人が読み込んだように、価値形態論は、超感覚的な価値なるものがじつは「シニフィアンの戯れ」(=物質的世界)から派生してくるものだという観点で読み込もうとすれば読み込めるようにも思います。この点は、時間的余裕があればまた。

 >>不断に存在する貨幣の存立根拠を説明し得ないとしたら
 >>価値形態論<現実的な(金が貨幣として流通していた時代においてさえ)貨幣の存立根拠を説明し得ない、空虚な理論という意味で形而上学。

 これについては先述の通り、宇野学派ではマルクスの論理展開にはおかしなところが沢山あるということは前提とされていて、独自の再構築の努力をしてきました。だから、個別マルクスの論理展開についての批判ならば当然という気がします。もっとも、たんに不十分な理論という意味で形而上学というなら、形而上学という言葉の濫用でしかありませんよ。

 少なくとも、ウィーン学団系統の分析哲学においても、どういう言語使用の混乱が形而上学となるか、について(私には不毛な面も多いと思えますが)厳密な議論をしているとおぼろげながら認識しています。

 >>第二版後記において「形而上学だ」という批判に対して反駁した弾丸は本人にもどってくるのではないか

 ここは該当箇所が見つからないのですが?


>臨夏さん 投稿者:老愚童  投稿日: 620()005855

>「・・論理=歴史説・・で否定」
 基本的にそうでしょう。とすると・・
 
限界です。では。


御返事>鄙親父さん、臨夏さん 投稿者:老愚童  投稿日: 620()005033

>「価値形態論は形而・・どちらかというと、空理空論・・」
 簡潔に、
 価値実体論<超感覚的な領域を思索対象としているという意味で形而上学
 価値形態論<現実的な(金が貨幣として流通していた時代においてさえ)貨幣の存立根拠を説明し得ない、空虚な理論という意味で形而上学。もちろん、そこで用いられている論理は魅力的ですが。

>「狭い」
 ひどく了解。さきほど表氏の70年代初期の論稿探したけど。行方不明のまま。

>「もっと書くと・・観念論・・どうやらマルクス・・?」
 思想史の勉強したことないです。

おやすみなさい。


老愚童さん> 投稿者:臨夏  投稿日: 620()001829

>商品を感覚的に分析しても「価値」など感知できないわけで

20年くらいも前に、表が紹介してくれた、ある学者の説では、
「食べるパンの物質自体が価値」である、と。
物質=炭水化物としてのパンがないと、身体は現実には維持できないわけで、
このように、価値を「唯物的に」とらえていました。

おもしろいですが、表はいまは唯物論者でないので、どう思てるのかな。

>マルクスのアノ理論は、歴史的事実として時間貫通的に貨幣の誕生を説明し得ているのでしょうか?そして、貨幣の現実的存立根拠を不断に生成、緊張し存在するものとして説明し得ているのでしょうか?

「歴史的事実として」というのは、いわゆる「論理=歴史説」やとしたら、
否定されてるのではないでしょうか。

マルクスのこの理論は、なんというのかわかりませんが、論理モデルのようなものでしょう。
(「理念型」?。わたしは、ヴェーバー用語?は使えません。。)

編集済


>鄙親父さん、高望みさん 投稿者:老愚童  投稿日: 620()000735

>「貨幣が登場するにいたる論理的過程を叙述するのが・・」
>「自然そのものでもないし人間の意識過程そのものでもない第三領域の独自の性格」
>「マルクスの叙述自体・・わけわからない・・欠落・・形而上学であるかどうか別の問題」

 解説書的な書き込みは省略し、わたしが理解している範囲で価値形態論の要点のみ記せば、「商品世界にn個の商品があるとすれば、全商品の全面的交換の可能性を担保として最終的に金という特殊な商品が一個、商品世界から析出・排除され、貨幣として生成してくる」と。このことを遡及的に2個の商品の対話から理論展開しているのではないでしょうか。

 この論理展開と叙述方法にデイアレクテイケー(対話・弁証法)が使われているものと理解してます。
 *即自・対自・即且対自を活用し、回階段的・階型的ロジックで読み解く、広松渉の方法はいまひとつなじめません。六ヶ敷い。

 ちょっと粗雑な説明になりますが、
 異種の二商品の等価交換(仮定します)で異種性(使用価値)を捨象すると、共通の「第三のもの」すなわち「労働」という「実体」が残る。これが「価値」だと。

 しかし、商品を感覚的に分析しても「価値」など感知できないわけで、ここは「形而上学的」と批判されても良いのではないかと。

 さて最後。
 ここに一人の生きた人間がいるとしましょう。同人にその存在を二つの方法で説明します。
 ひとつは、受精から誕生までの個体発生を時間貫通的に説明すること。ふたつは、生きて生命活動を行っていることをひとつのホメオスタシスとして、生理学的・医学的に説明すること。

 さあ、「貨幣の謎」を解明したとされるマルクスのアノ理論は、歴史的事実として時間貫通的に貨幣の誕生を説明し得ているのでしょうか?そして、貨幣の現実的存立根拠を不断に生成、緊張し存在するものとして説明し得ているのでしょうか?

 特にいま不断に存在する貨幣の存立根拠を説明し得ないとしたら、マルクスの貨幣論はたんなる形而上学ではないのかと。その場合、第二版後記において「形而上学だ」という批判に対して反駁した弾丸は本人にもどってくるのではないか、と。

 そろそろ毒もまわってまいりました。わたくし、明日からシノギきついのでしばらくお暇致します。書き込みは当分無理かと思いますが、偶に覗かさせていただきます。
  
 


すみません、見落としてました! 投稿者:臨夏  投稿日: 620()000200

老愚童さん>

>>臨夏さん
>「そういう捉え方ができへんのが狭いとこや」
 誰が、何が狭いのか、というのがポイントのような・・。その前段部は得心できます。

表のいつもの憤懣なんですが、世の権威ある大学の学者(とくに日本の)たちが、
人間総合学的な研究にいかんと、いつまでも古い、狭い、タコツボパラダイムでのうのうとしてることへの怒りでしょうか。

「狭い」いうのは、表の口癖批判キーワードです。

以上は、勝手にわたしが編集した文なんで、表が見たら、違う、言うかもしれませんが。。
しかも、わたし口悪いせいで、表師への野次みたいにも見えるな(^^;

>「哲学に限定されるのが狭い」
 形而上学が、ですか?そうするとますますわからなくなります。

ええと、前後わからないので、繰り返しになりますが、
表によれば、形而上学は、哲学以外にも、歴史学・地理学なども入るんですが、
みんな見方の狭さのせいで、思想・哲学のことのみを指してる、という批判です。

>「唯物論も観念論も」
 唯物論にたいして観念論を対立概念としてもってくるより、唯心論をもってきたほうがスッキリするような・・。

下にあるレスの、、高望みさんへのレスに書いた通りです。

もっと書くと、わたしは
唯物論ー唯心論がフォイエルバッハ時代の構図で、
観念論、を持ってきたのは、エンゲルスかレーニンかな、と勝手に思ていたのですが、
どうやらマルクスなんでしょうか?

編集済



高望みはん> 投稿者:臨夏  投稿日: 619()230536

>概念の存在性格にかかわる観念論すなわち観念実在論(実念論)vs唯名論という対立構図と、
>世界の存在原理にかかわる唯心論vs唯物論という対立構図とを交差させて、観念論vs唯物論
>という構図に仕立てのはフォイエルバッハだった、と廣松渉が整理していました。

わたしは、フォイエルバッハの著書に、『唯物論と唯心論』というのがあるので、
こっちが、混乱史以前の形やと思ていました。

それと、上の高望みさんの記述からは、
普遍論争の実在論のことを観念論という、というように受け取れますが、よろしいでしょうか?

唯佛論と唯神論を止揚したのが、神仏習合論である、とかいうてみたりw


>老愚童さん 投稿者:鄙親父。  投稿日: 619()220911

>>「形而上学・・の定義・・内実」
 前にも同様なこと書き込んだようにも思いますが、
「もののあり方、ふるまい・運動を観察し、思索する」のが「形而下学」とすれば、「ものや自然を超えた原理や、感覚によっては捕捉不可能な超感性的なものごとを思索する」のが形而上学にあたるのかな、などと近頃考えてます。
 もちろん、論敵を非難・罵倒する言葉として、「空理・空論」という意味で用いる場合もありかな、とも。<<

なるほど。そういうことなのですね。
価値形態論は形而上学なのではないか、というときには、どちらかというと、「空理空論」のような意味で用いておられたわけですね。


>鄙親父さん、高望みさん 投稿者:老愚童@酒精  投稿日: 619()205122

sincerityあふれる返事ありがとう

>「固定的なものの見方=形而上学、動的なものの見方=弁証法・・」
 そうだったんですか。固定的なものの見方=形式論理学、かなと思ってました。オーソドクシーとはあまり縁がなかったもので。

>「アリストテレス・・形相・・」
 形相(eidos)との関連性の指摘、確かに。おそらく、形相の二面性(外見的形態であると同時にそれを内から支える力)に淵源するかもしれませんね。

>「形而上学・・の定義・・内実」
 前にも同様なこと書き込んだようにも思いますが、
「もののあり方、ふるまい・運動を観察し、思索する」のが「形而下学」とすれば、「ものや自然を超えた原理や、感覚によっては捕捉不可能な超感性的なものごとを思索する」のが形而上学にあたるのかな、などと近頃考えてます。
 もちろん、論敵を非難・罵倒する言葉として、「空理・空論」という意味で用いる場合もありかな、とも。

>「宇野理論では(Wertformが)商品の持ち手による価値の表現形態だ・・」
 この文、なんかトートロジーのような気がしますが。

>「マルクスの含意は、・・価値なる本質の現象形態・・」
 果たしてマルクスには「本質」が何らかの媒介を経ると「現象」する、というような思考のあり方があったのでしょうか?

>「読み手の側である程度自由に・・」
 そうですね。少なくとも第一巻は、思想書とか理論書というより、ビルトンクストーリーの一種として、資本がどのように生誕し長じて悪事を働き最後に自らの寿命を悟り・・というような、「資本の物語」として読めば良いのかも。

 その他の諸点については、広松の青本等にあたって確かめた上でレス致します。


ハイデッガー 投稿者:高望み  投稿日: 619()193947

 初期ハイデッガーは、デカルト、カント的な認識論から、アリストテレスやプラトンの形而上学に回帰することをもって『存在と時間』の存在論のモチーフとしていたはずです。
 ところが、中期以降、だんだんと、ソクラテス以前の自然哲学にこそ、みずからの存在論的思考の起原を求めて逝くようになり、形而上学批判に傾いていったのかもしれませんが、その辺で、「形而上学」のニュアンスと批判的スタンスとに、わかりにくさが加わったのではないでしょうか。
 というのは、じつは、まさに、私のような一知半解なハイデッガー読者についてあてはまることです。


価値形態論 弁証法 投稿者:高望み  投稿日: 619()192841

老愚童さん
>>金・銀が貨幣として流通していた時代においてすら、マルクスのあの理論が貨幣の機能・本質・存立構造を解明したなんて言えるのだろうか、と。17,8世紀の哲学者が、神の存在をアレコレ証明したつもりと相似なのではないかと。「このようにも一応は説明できますよ」くらいであれば、首肯もしえるのですが。>>

 マルクスの叙述自体では、まったくわけがわからないところが多いのですが、宇野学派の再構成によって合理化されたと思います。それでも、いろいろ欠落が多いのは否めませんが、そのことと、それが「形而上学」であるかどうかは別の問題だと思いますが。

 『資本論』冒頭の弁証法とマルクスがいっているものは、価値と使用価値の矛盾から商品、貨幣、資本と自己展開してゆくかのような叙述方法のことを指しているのですが、価値なるものがじつは関係性(広くいえば臨夏さんもいうとおり、初期エンゲルスが好んで使った「交通」)の中で錯視によってもたらされるものだ、という物神性論で、ヘーゲルの観念論的弁証法が唯物論的に転倒されようとしているわけです。
 そこは、廣松渉の指摘した通りです。ただし、観念論的な弁証法を転倒してしまうと、唯物論的な弁証法になるのではなく、弁証法そのものが成り立たなくなるのかもしれません。マルクスはそこを曖昧にしていたのではないでしょうか。


補足 投稿者:高望み  投稿日: 619()191800

 鄙親父さんの説明を読んでいたら、20世紀の英米・ウィーン学団系の形而上学批判という文脈もありますね。根っこは唯物論と同じ角度ではありますが、こと形而上学の批判については、なんかへんな方向に入り込んでしまっているように見えます。言葉の使い方の間違いが形而上学だ、というような。
 ただ、ほとんど悪口としてしか意味をなしていない形而上学という用法は、マルクスと共通して居るともいえます。


形而上学入門 投稿者:高望み  投稿日: 619()190553

老愚童さん
>>唯物論にたいして観念論を対立概念としてもってくるより、唯心論をもってきたほうがスッキリするような・・。>>

 概念の存在性格にかかわる観念論すなわち観念実在論(実念論)vs唯名論という対立構図と、
 世界の存在原理にかかわる唯心論vs唯物論という対立構図とを交差させて、観念論vs唯物論
という構図に仕立てのはフォイエルバッハだった、と廣松渉が整理していました。(木田元系の鄙親父さんの理解では、こういう整理はどう評価されるかわかりませんが。)

 世界の存在原理が唯心論的なものであり、概念は実在する、となれば、それは神・霊的なものが実在し、しかも世界の原理となっているという立場になります。ソクラテス・プラトン・アリストテレスが古代ギリシアにそのような認識論的切断をもたらしたわけです。
 ですから、それは、イデア論=イデアリスム=プラトニズム=形而上学なのですが、同時に、キリスト教と融合可能な神秘的世界観となっています。

 他方、物質・質料が世界の存在原理であり、概念はたんなるものの名前にすぎないとなれば、神・霊も存在しないという無神論、唯名論、唯物論となるわけです。ソクラテス以前の自然哲学からデモクリトス、エピクロスの唯物論まで、古代ギリシアではもともとは、むしろこういう発想のほうが主流だったのかもしれません。

 ヘーゲルは、観念論的な弁証法で全世界を把握しようとしました。それを唯物論的に転倒しようとしたのがマルクス、エンゲルスでした。フォイエルバッハらヘーゲル左派には弁証法に関心はありませんでした。
 しかし、ヘーゲルが徹底して示したように、弁証法は観念論としてはじめて円環を結びうるわけで、唯物論的な弁証法というものはありえないわけです。そこに、マルクス、エンゲルスの錯誤があったと思います。

 カント以前の形而上学というのは、神・霊的な世界についての言説でした。そこに、概念や観念の議論も含まれていたわけです。ヒュームがそれに対する懐疑をつきつけ、独断論のまどろみから醒めたカントは、形而上学的な問題そのものを消去するのではなく、それを取り扱う独断論的な手法を「理性批判」したわけです。

 ヘーゲルは、観念論的弁証法という独自の手法によって、形而上学的な問題を扱えると考えたと思いますが、「形而上学」という言葉についてどういうニュアンスを込めていたのかは、私にはわかりません。ここは鄙親父さんの専門領域です。

 マルクスは先述のように悪口以上の意味で使っているところは思い浮かびません。それに対して、エンゲルスは明確に、弁証法的なものの見方と形而上学的なものの見方を対置していたと記憶しています。アリテレ〜カントの形式論理学と形而上学とを混同してしまったのかもしれません。
 このエンゲルス的な言い方が、レーニン以降、たいへん広く流布しましたので、いろいろ混乱が深まったものと思いますが、ニーチェまで含めて、基本的には神・霊的な観念論のことを形而上学といっているように思います。ニーチェの批判は、はっきりと無神論、唯名論的な角度からのものです。その意味では、百五十年前のヒュームの批判の焼き直しにすぎませんでした。

 ハイデッガーが、形而上学とは本来、存在論であった、としながら、「存在」とは何のことかを一向に明らかにしなかったので、形而上学という言葉は、またややこしい陰影を帯びるようになりました。

 つまり、伝統的には、形而上学とは神・霊的な観念論であり、それに対する批判は、唯名論、唯物論、経験論的な無神論でした。ヒュームもフォイエルバッハ、マルクス、エンゲルスもニーチェも、この範疇に収まります。
 これに対して、エンゲルスが形而上学と形式論理学とを混同して、弁証法的なものの見方を対置したことは混乱を招きました。
 さらに、ハイデッガーの秘教哲学による意味不明の存在論こそが真の形而上学だという教説が、混乱を助長してきたわけです。


「価値形態」の「形態(Form)」 投稿者:高望み  投稿日: 619()182012

>>ふたつは、「価値形態」の「形態(Form)」という言葉です。「貨幣の謎」を考究すると4段階にシェーマ化した叙述が弁証的なかたちをとる、という意味なのでしょうか?それとも・・>>

 ヴェルト・フォルム、ヴァリュー・フォームというのは、ほんとうに、どういう意味合いなのかつかめない造語だと思います。宇野理論では、商品の持ち手による価値の表現形態だ、という点に重点をおいて使っていますが、もともとのマルクスの含意は、どうもそれだけではなさそうです。価値なる本質の現象形態という意味でも使われています。しかし、結局どうなのかは、はっきりとは読みとれません。

 形態、形式ですから、アリストテレスの用語でいえば形相と同じ言葉ではありますが、はたして、この場合においてマルクスが、形相概念をどの程度意識していたのかは不明だと思います。

 他方でマルクスは、価値実体という言葉も使っています。これは労働の対象化された凝固物だとされていたと思います。マルクスは、価値実体→価値→価値形態という三層構造で使い分けていることまでは確認できますが、そこでの実体、価値、現象形態の三者がいかなる関連にあるかわかりにくいです。

 アリストテレスであれば、実体は形相・イデアの側にありますが、マルクスは唯物論だとすれば、実体を質料・物質および物質代謝としての労働の側にみたという解釈もできるのかもしれません。
 価値は、相互交換を可能とするような共通性・同質性のことだとされています。これは、オーストリア系の哲学者(カール・ポパーにいたる)や廣松渉が問題としたような、自然そのものでもないし人間の意識過程そのものでもない第三領域の独自の存在性格をもっています。(しかるに、これこそは形相・イデア的なもの、イデアールではないのか?)
 現象形態は、価値実体の現象形態ではなく、価値なるものの現象形態とされています。ここもわかりにくいところです。

編集済


そうですねえ・・・ 投稿者:鄙親父。  投稿日: 619()101933

>さてでは、マルクスが「商品は極めて気難しいものであって、形而上学的小理屈(metaphysische Spitzfindigkeit)と神学的偏屈に満ちたもの」と記すとき、彼の頭脳にはどのような表象が浮かんでいるのでしょう?上の3つのどれか?それとも・・<

ううん・・・・やはり引用された文言だけを見る限りでは、ここは、高望みさんの言われるような単なる悪口程度なのではないでしょうか。

>わたしがこの場合「形而上学」的というのは、理論の進め方、記述の仕方が形而上学的というのではなく、あの論述で説明すること自体がそうなのではないかと<

難しい問題ですね。

老愚童さんは、「形而上学(的)」という言葉を批判的な意味で使っておられますが、その定義といいますか、内実はどのようなものなのでしょうか。あるいは逆に、どのような議論であれば、悪しき「形而上学」たることをまぬかれるとお考えですか。

>「このようにも一応は説明できますよ」くらいであれば、首肯もしえるのですが。

こうした点は、読み手の側である程度自由に受け取ってもよいのではないか・・・とも思うのですが、どうでしょうか。

「『このようにも一応は説明できますよ』くらいの話として受け止めておこう」、と考えるには、やはりマルクスの物言いがあまりにも大仰、大仕掛けで、断定的もしくは「預言者」的、ということなのでしょうか。ただ、そうなると価値形態論には限定されない話になってしまいますけれども。すみません、自分で書いていて自爆してしまいました・・・

私自身、自問自答しながら書いています。老愚童さん、こんなしょぼいレスしか書けなくてすみません。今日は夜にはまたネットに戻ってくる予定です。


ちょっと勉強しました 投稿者:老愚童@ダダDaッ  投稿日: 618()220749

仕事で使った機械の振動がまだ身体に残っててうまく書き込めるか不安。

>鄙親父さん
 ご説明いただいた記述から愚考しますに、マルクスが「形而上学」として批判する場合、ほぼ次の3点くらいが批判の対象なのではと、リストアップ可能かと。
 
 ライプニッツ学派的な、「魂の不滅、神の存在証明、宇宙の無限・有限」に関する思想・観念。カント的な「理念」。ヘーゲル左派も批判した「宗教」。

 さてでは、マルクスが「商品は極めて気難しいものであって、形而上学的小理屈(metaphysische Spitzfindigkeit)と神学的偏屈に満ちたもの」と記すとき、彼の頭脳にはどのような表象が浮かんでいるのでしょう?上の3つのどれか?それとも・・

 >高望みさん
 やはり単なる「悪口で使って居るぐらい」なのでしょうか?

>>鄙親父さん(再び)
 >「価値形態論の議論は・・晦渋な形而上学」
  確かにそのようにも言いたくなりますが、わたしがこの場合「形而上学」的というのは、理論の進め方、記述の仕方が形而上学的というのではなく、あの論述で説明すること自体がそうなのではないかと。金・銀が貨幣として流通していた時代においてすら、マルクスのあの理論が貨幣の機能・本質・存立構造を解明したなんて言えるのだろうか、と。17,8世紀の哲学者が、神の存在をアレコレ証明したつもりと相似なのではないかと。「このようにも一応は説明できますよ」くらいであれば、首肯もしえるのですが。

>>臨夏さん
 >「我流の・・」
  アウトラインとしては良いかも。
  



勝手ながら、今日は 投稿者:鄙親父。  投稿日: 618()220419

これでネットを離れます。


そうですね 投稿者:鄙親父。  投稿日: 618()215840

そういう理解もできるのではないでしょうか。>臨夏さん

で、私も我流のことをば少し・・・。

私自身は、形而上学批判は結構だけど、あんまりそればっかりではかえって精神がやせほそっちゃうんじゃないか、と思います。
たとえば、「感覚的な経験」からすべてを語ろうとする経験論というのは、ひとつの思考実験のようなものとしてはもちろん意義があると思うし、そうした視座から妙な形而上学的世界を相対化するのは有効だと思います。

しかし、人間の経験には、たんなる「感覚的経験」だけではなくて、「美的芸術的経験」とか、「宗教的経験」とか、あるいは「哲学的思索の経験」とかもありうるわけです。それらを一方的に「感覚的な経験」に還元するとすれば、なんか貧相な世の中になってしまうなー、と思います。いま挙げた「芸術」とか「宗教」とか「哲学」とかは「形而<下>的なもの」にたいして「形而<上>的なもの」と呼べるかと思いますが、その意味では、「形而上的なものに関わる経験」だって人間の精神には可能なのだ、と私は思います。ただ、そうした「形而上的なもの」を妙に特権化することなく、あくまでも人間精神・人間社会・歴史の重層的な構造のなかの一要素とみなし、適度な距離感なりバランス感覚なりをもって接することができさえすればよいのだ、と。


我流のことをしゃべくってええですか 投稿者:臨夏  投稿日: 618()191234

形而上学を、理念の実体・哲学の実体として、それに根拠がないとして、
外部=形而下の世界にその存立基礎を求めていく、それが交通=交換である、
というのはどうでしょうか。

これは、市民社会を研究していきつつ、フォイエルバッハを罵倒するマルクスそのままですが。

(ここでいう「実体」とは、他者との交通がなくても、一人でやっていけるモノを指しています。)

編集済


老愚童さん 投稿者:高望み  投稿日: 618()170427

ようこそ。

 いま、時間がないです。
 「形而上学」は論者によってそもそも定義が違っていますから、批判の対象となっているものも、それぞれ違っています。エンゲルスの場合は、固定的なものの見方=形而上学、動的なものの見方=弁証法という使い分け方もしていて、オーソドックスなマルクス主義ではこういうとらえ方になっていたと思います。
 ニーチェおよびその模倣者である柄谷行人の場合は、プラトン的イデア論の流れをくむ西洋哲学のバリエーションをすべて「形而上学=プラトニズム=イデアリスムス」として批判していたのではなかったかと思います。
 初期エンゲルスは、イデオロギー=イデアリスムスという批判を『ドイツ・イデオロギー』でしていたのではないかという超解釈が、廣松渉によってほのめかされたりしてまして、整理分類が難しいことが伺えると思います。
 しかし、マルクスの場合は必ずしもはっきりしません。あまり「形而上学」がどうのという言い方はしていなくて、たんに、「形而上学的に難解な」云々という悪口で使って居るぐらいの印象しかないです。
 あ、いずれ時間をみて、ちゃんと書き込み直したいと思います。いまのは思いつくままの走り書きです。


もちろん 投稿者:鄙親父。  投稿日: 618()143220

「交通」とか、そういう言葉を持ち出せば形而上学が解消するわけでもないでしょうね。

「交通」というものがありまして、ここからこれこれこういうものが幻想的な観念形態といして派生してきまして、という議論も、それが具体的な歴史状況から切り離されてしまえば、空疎な形而上学として、それこそ「死せる犬」扱いされても仕方がないわけでしょうし。

ただ、個別、『資本論』劈頭の価値形態論の根底に「ディアレクティケー」、つまりは弁証法があるかどうか、それがどのように機能しているか、さらにそれを「形而上学」といえるかどうか、については、いまちょっと確かめる余裕がありませんです・・・。

しばらくネット離れます。


「価値形態」 投稿者:鄙親父。  投稿日: 618()141704

については、高望みさんの登場を待つべきでしょうが、彼はなかなかこちらに来れないかもしれないですね。

ちょっとだけ、怪しげな説明をば・・・。

価値形態論で扱われるのは、使用価値/交換価値のうち、交換価値のほうですね。価値形態論の議論は、老愚童さんのおっしゃっていたように、たしかに晦渋な形而上学という感じがしますが、その根底にあるのは、商品の「交換」であり、つまりは、「交通」なのではないでしょうか。

で、その「交換=交通」が複雑化し、高度化する中で、「交換価値」の「形態(形式)」が変容し、貨幣が登場するにいたる論理的過程を叙述するのが価値形態論ということになるのでは、と思います。

と、これはあくまで私のこの場でのうろ覚えの話です。高望みさん、正確なお話お願いいたしますです。


形而上学について6 投稿者:鄙親父。  投稿日: 618()141019

 カント以降、表立って形而上学批判を唱えたのは、おそらくヘーゲル左派(これはまあ、さしあたってうは宗教批判というべきでしょうけれど。マルクスが「ドイツ・イデオロギー」で批判したのも、広い意味での形而上学ということになりましょう)でしょうし、さらにはニーチェなのでしょうね。

カントは、魂の不死・人間の自由・神の存在というものを「実践理性」にとっての「理念」として保持しましたが、カントのほぼ1世紀後の世代に当たるマルクスやニーチェは、そうした「理念」からして、現実の人間の「交通」だとか、「力への意志」だとかに淵源するものであって、後者を抜きにしてそうした「理念」を論ずるのは倒錯でしかない、と考えたわけですね。ここで、カント的な形而上学批判がさらに徹底するわけです。

英米系の伝統には、イギリス経験論の流れを受け継ぐ分析哲学による形而上学批判もありますが、こちらはあまり私も詳しくないので、触れられません。もっとも、「<英米>系分析哲学」といっても、じつはウィーン出身のユダヤ人・ヴィトゲンシュタインが深甚なる影響力を持っているわけで、じつは「世紀末ウィーン」の精神というのは、「分析哲学」の伝統の中でも無視できない力を持っているわけですね・・・とこれはしかし、またべつのお話ですね・・・。


>鄙親父さん 投稿者:老愚童@仕事  投稿日: 618()140804

忙しいなか、ていねい説明、恐縮です。仕事出撃しなければなりませんので、後ほどゆっくり読まさせていただきます。


形而上学について5・・・なんか「教科書」的な説明ですみませんです・・・ 投稿者:鄙親父。  投稿日: 618()135843

大陸合理論の流れを汲むライプニッツ学派のもとで、形而上学は講壇哲学として体系化されます。存在一般の論理を追究する「存在論」は「一般形而上学」として位置づけられ、さらに、「合理的神学(魂の不死をテーマとする)」、「合理的宇宙論(個々の天体現象を問題にするのではなく、宇宙そのものは有限か無限か、この宇宙は必然性が支配するだけなのか、それとも人間の自由が存立する余地があるのか・・・をテーマとする)」、「合理的神学(神の存在証明が根本テーマ)」という3つの部門が「特殊形而上学」として整備されます。この段階では形而上学は盛期を迎えます。

形而上学が死せる犬として扱われたのは、まず、イギリス経験論においてだと思います。
感覚的経験のレヴェルから話を進めよう、という前提の下、そうした感覚的経験からは遊離した空理空論としての形而上学は徹底的に批判されるわけです。

しかし、イギリス経験論のヒュームにいたって、自然科学の根本原理である因果律までもが否定され、さらに人間の人格は、所詮「感覚の束」でしかない、というところにまで話が来てしまいます。ここで、空疎な形而上学は批判しながらも、自然科学的な認識(当時としてはニュートン物理学に代表されるようなそれ)をきちんと基礎付けてやり、さらに人間の人格のリアリティーというか尊厳をも保障する論理が必要となります。この論理を提起するのがカントです。

カントは、「純粋理性批判」で、人間の理論的認識が有効に働く範囲を「現象界」に限定し、「物自体界」は理論的認識ではなく、道徳的な実践の領域であると位置づけます。「純粋理性批判」の前半部分で、ニュートン物理学に代表される自然科学は現象界の認識として有効である、ということが論証されます。一方、従来の形而上学、とりわけ、心理学・宇宙論・神学は、この現象界を超えた領域を不当にも理論的に問おうとする無理を犯しているとして批判されます。これが「純粋理性批判」の後半部分の議論です。

この限りで、カント哲学において形而上学(正確には「特殊形而上学」ですが、近代哲学で「形而上学」というと、この「特殊形而上学」をさすことが多いです)は批判されたことになります。

とはいえカントは、実践理性(道徳的行為に関わる理性)の次元では、魂の不死・人間の自由・神の存在に独自の位置を与えます。これらは、カントに言わせればもはや特殊形而上学のような<理論認識>の領域では扱うことができませんが、人間の<道徳的実践>の領域では、「理念」として「要請」されうる、というのです。道徳的な実践は、さまざまな利害関係によって惑わされたり、外的暴力に屈したりして不純になってはならない。この道徳的実践を純粋なままに保ち、そのようなものであるべく導くのが、魂の不死・人間の自由・神の存在への信念である、と。(カントの倫理学はひどく厳格ですね・・・)


たみちゃんさん・様の導きにより 投稿者:老愚童@冷たい麦茶  投稿日: 618()135425

鄙親父さんの板から引っ越してまいりました。よろしくお願いします。
>>臨夏さん
>「そういう捉え方ができへんのが狭いとこや」
 誰が、何が狭いのか、というのがポイントのような・・。その前段部は得心できます。

>「哲学に限定されるのが狭い」
 形而上学が、ですか?そうするとますますわからなくなります。

>「唯物論も観念論も」
 唯物論にたいして観念論を対立概念としてもってくるより、唯心論をもってきたほうがスッキリするような・・。

>「哲学の否定(止揚)」
 突き詰めればそこに行きつくのかもしれませんが、それ以前のはなしとして、資本論・劈頭で展開・活用されているデイアレクテイケー(対話・弁証術)こそ、「形而上学」ではないのかと・・。

いずれにしても、鄙親父さんのご帰還、経済学プロパーの方からの知見待ちたいと存じます。

>>たみちゃん
興味深い板のご紹介、ありがとうございます。

>ひとりごと
こうした問題あれこれ考えてると、どうしても広松渉の提示、展開した諸問題にも触れざるを得ないのかな。彼亡き後、当時の若きお弟子さんたち(高橋、吉田氏等)はどのように師の業績を継承してるのだろうか?



観念論、なるほど 投稿者:臨夏  投稿日: 616()162938

でも昔はわたしもゴリゴリの唯物論者で、
まえ紹介した砂川が「胡蝶の夢」を、洒落でなく本気で言い出したときには、
真剣な斗争となったものです。

かくいうわたしも、表研入門初期は、観念論は否定できない、と思て、
他の会員に「観念論者宣言」して喫茶店で5時間くらいイデ斗しました。
10対1くらいの圧倒的な劣勢のなかでの弁論は、喫茶店のおばちゃんだけが見方になってくれて(聞いてたんでつなあ)、それが却って「嘲笑」のネタになったものです。

おべっか使いのスタにヤラレタ!と思いました(笑


>>経済を実体化させない 投稿者:高望み  投稿日: 616()155752

 そういう意味でならわかります。だけど、かなり独特の概念の使い方の連鎖で、ちょっと第三者との「交通」がむつかしいかもしれません^^;

>>クロカンのがただもの論で、「ただの客観主義」が唯物論ですか?

 ? 「タダモノ論」罵倒て、もとはといえば黒寛が家元でしょ。

 ヘーゲルはなぜか読まずに批判する、というのが通り相場になっていますが、読んだ人は必ず是のどこが間違いなんだ?と「宙返り」をおこします。もっとも、僕の言っているのは「法哲学」や「歴史哲学」、「宗教哲学」について限定で成り立つ話しです。表さんは、「精神現象学」や「論理学」の方面には造詣が深いと思います。

 観念論=幻想論も「唯」がつかなければ、どこがまずいのかわかりませんね。インターネットなんて、「物質の自己運動」から生み出された、という強弁を哲学的に考えるよりも、観念論で考える方が、よっぽど経済的で効率的で健全な思考回路じゃないですか。

編集済


経済を実体化させない 投稿者:臨夏  投稿日: 616()153654

というのは、言われてないですか。
これは、地理学にも、なんにでもあてはまることで、

たとえば、個人身体は、呼吸や新陳代謝を通して、地球環境全体と「交通」してますね。
この例え自体はベタなんですが、

経済も、原理論のように、独立した王国を築くのでなく、
世界全体との関係=交通のなか、一時的に成り立っていて、
時が来たら、脱構築?して、パラダイムを変える、とわたしは理解しています。

これ、柄谷はんのご友人の、岩井なんとかさんの、「不均衡動学」(経済学ですね)から
ヒントを得ました。

でも、『段階論〜』読んだら、宇野が段階論について、そう解釈してるようです。

編集済


お忙しいなか、 投稿者:臨夏  投稿日: 616()153058

レスありがとうございます。

1.マル経というのは、真のマルクス研究でなく、日本的にいびつい、と聞きます。

2.あ、そうなんですか、下部は、全般的な傾向として、上部を規定するんでしょうか。

3.すみません、経済、です。

>結局、唯物論というのはダメでヘーゲルの弁証法的観念論が正しいのだと思っています。

観念論になってしもたらそれはそれでまずくないですか。
マルクスの成果を踏まえ、元にもどらず、乗り越える、、、というたら安直でしょうか。

因みに、表は、ヘーゲルを、マルクスのまちがいの原因の一つにみてるみたいです。
カントまではよくて、それ以降のドイツ観念論を否定し、
いまはフッサールやってるようです。

まえも同じこと言うていたとしたらすみませんです。

>黒田寛一にしゅうやくされた戦後主体性唯物論のような、
>中途半端なで自己撞着的な唯物論と、ただの客観主義的な唯物論の違いだと思います

クロカンのがただもの論で、「ただの客観主義」が唯物論ですか?

そうとすれば、しかし、少なくとも、フォイエルバッハテーゼの、
「大将を主体としてとらえる」というとこや、
「教師も教育される」などで、「ただの客観主義」は乗り越えられてると思います。

編集済


(無題) 投稿者:高望み  投稿日: 616()152933

>>この、経済を実体化させない、いうのが、
ヘーゲリアンマルクシズムでしょうか?
また、この辺の問題意識が、「交通」、ということなのでしょうか。>>

 経済を実体化させない、という問題意識はマルクスや宇野弘蔵にはないと思いますし、その影響圏内にいるせいか、私にもありません。その限りでは、幻想領域、観念的上部構造の方を実体化させない、という古典的マルクス主義の感性の方に親和感がありますが、これはあくまでも個人的な感性の問題です。吉本隆明やハンナ・アレントや麻原彰晃からは、そういう感性の限界を学んできました。

 「交通」をとくにクローズ・アップさせたのは三浦つとむと柄谷行人で、とくに後者ですが、それはノマドとの連想によっていました。そこには、吉本やアレント=ハイデッガーや日本浪漫派に共通の故郷喪失感覚(=感覚的な自己疎外論)にたいする、ポスト構造主義的な批判という日仏会館的な思想文脈がありました。

編集済


(無題) 投稿者:高望み  投稿日: 616()152008

1.経済学は、市民社会の解剖学やのに、それを専門にやるマル経が、(マルクスの文脈で、)悪く言われるのは何故か。

 いつ誰が何をどのように? 千差万別ですよ。しかし、市民社会の解剖学だから悪いという批判は一つもないはず。カトリックや統一教会は知らず。

2.上部構造は、100%一方的に下部構造に規定されるのか。

 エンゲルスは、そういう誤解を打ち消すのに躍起になってのは有名な話しですよ。

3.唯物史観をすなおにやれば、経済学が、下部、と思えるが、なんでそれがいかんのか。

 経済が、ではなく、経済学が、ですか?

4.「基底還元論」がいかんというが、ではどないしたらええのか。

 この場合の還元というのは、たとえていうなら、三角形の二辺を底辺に還元してしまうということですよ。吉本隆明がやったように、幻想領域(下部構造)を独自的に取り出さなくてはならないでしょう。

5.とどのつまり、タダモノ論と唯物論の違いはなにか。

 黒田寛一に集約された戦後主体性唯物論のような、中途半端で自己撞着的な唯物論と、ただの客観主義的な唯物論の違いだと思います。
>>どうも、「唯物論」自身が、「タダモノ論」化されざるをえないのではないか、とも
最近思ってます。>>

 結局、唯物論というのはダメでヘーゲルの弁証法的観念論が正しいのだと思っています。

編集済


こんなことも知らず、現代の大衆民主主義者か〜!と 投稿者:臨夏  投稿日: 615()223928

言われそうですが、だいぶん前からの疑問。

1.経済学は、市民社会の解剖学やのに、それを専門にやるマル経が、(マルクスの文脈で、)悪く言われるのは何故か。

2.上部構造は、100%一方的に下部構造に規定されるのか。

3.唯物史観をすなおにやれば、経済学が、下部、と思えるが、なんでそれがいかんのか。

4.「基底還元論」がいかんというが、ではどないしたらええのか。

5.とどのつまり、タダモノ論と唯物論の違いはなにか。

表門下の恥さらしのようでいろいろ、、なんですが。
しかもいっぱいすみません。
お答えくれはるときは、思い付くままでええです。

もちろんわたしは、『経済学批判序説』のあの有名な公式で、
唯物史観は、「導きの糸」にすぎないことや、
「経済学を批判する」ことの意味もわかってるつもりです。

国民経済学批判という意味や、
経済学を歴史の中に置く、いうことや(これは、『段階論の研究』でわかりやすかったです)、
世界のなかに経済学をすえ、その二重化のとこで対話していく、
要は、経済を実体化させない、ということを考えてきました。

この、経済を実体化させない、いうのが、
ヘーゲリアンマルクシズムでしょうか?
また、この辺の問題意識が、「交通」、ということなのでしょうか。

以上、自分の質問に、自分でもある程度答えられるかも知れませんが、

どうも、「唯物論」自身が、「タダモノ論」化されざるをえないのではないか、とも
最近思ってます。どうでしょうか。

編集済

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